現実の魔法のランプを探す旅

願いを何でも叶えてくれる魔法のランプは欲しいですか? そんなランプを探す旅行記のお話し。 夢はたくさんあるけれど、まずは自由を獲得すること。 今まで出会った言葉や気付き、新しく出会った格言などを書いてきます。 鹿島や日本代表などサッカーネタやFPS等のゲームネタ、趣味のDIYなども書いていきます。

カテゴリ: 昔のお話

みなさん、こんにちは。魔法のランプです。

先日、幼稚園生の娘が頭部を裂傷いたしまして、現在傷口をホッチキスみたいな針で固定しております。大量出血だったそうで、本人もかなりショックを受けたそうです・・・。

まあそうですよね、普通大量出血なんてしませんし、大量の血を見ることも滅多にありませんし。

傷口は髪で隠せるところですし、傷口の接着具合もとても早い感じです、さすが若い(笑)


そんな娘を見てある事を思い出しました。

それは自分が高校2年生の年末、12/25~28日程度のサッカー部の遠征先で、26日私は頭部を裂傷して大量出血して救急車で搬送されました。
相手選手と激しく接触してしまい・・・


なんていうのは嘘で試合前のウォーミングアップ中に遊んでおりまして、走り高跳び用のマットに背面飛びをしたんです。そしたらマットに高飛び用の支柱がめり込む形で隠れており、それが後頭部に直撃・・・。

信じられないほどの衝撃!!!!
目の前は白黒になり、平衡感覚を一時失いました。
とりあえず立とうと起き上がり、膝に手を当てた状態で一度傷口に手を当ててみると、そこには血と髪の毛が・・・。

「あっこれはヤバイかも」

そう思った瞬間、滝のごとく「血」が・・・。
まるで血のシャワーを浴びているかのごとく。少なくとも5本の血の柱が地面まで伸びていました。

走ってきた他校の保護者がタオルで抑えてくれるものの、一瞬で血でべっちょり。
それでも思い切り押さえつけて救急車が来るまで頑張ってくれました。

救急隊が到着し三角巾を当て、包帯で頭部を「これでもか」という力でグルグル巻きにされ病院へ搬送。
まず傷口付近の髪の毛を剃り、麻酔の注射を4~5本ぶっ刺します。
皮膚から頭骸骨まで数cmしかないので麻酔の針をグリグリ押込まないと刺さらないそうです。
何回もグリグリされて冷たい麻酔を注入され、傷口を5針くらい?!縫いました。
傷口の幅は5.5cmで「パックリ」行っちゃってました、試合中に怪我したの?凄い衝撃だったでしょう。とドクターから言われました(笑)

いやマットに背面飛びしたら支柱があって・・・なんて話はできず、はぐらかし病院を後に。
その後数日間は「桃の保護ネット」みたいなネットをかぶり生活する羽目に・・・。まあ自業自得なんですが(笑)


そんなエピソードを娘を見て思い出しました。
娘に簡単に体験談を話したら「お父さんも血ドバーッと出たの?一緒だね♪」と笑ってました。
娘の怪我は土手で姉と遊んでいて転げ落ちたら下に側溝が埋めてあり、そのエッジに側頭部をぶつけて裂傷したらしい。
相当に痛かっただろうに、でも本人はケラケラ笑ってました。(今日は)
元気で何より!もし打ち所が悪かったら・・・。ゾッとします・・・。

後遺症も無く傷口も綺麗に接着して、あとで笑い話になりますように。


こんばんは、魔法のランプです。

今日は東日本大震災から4年の節目の日でございます。
もう4年経ったんだという気持ちを、ちょっと振り返ってみたいと思います。



記憶を風化させない為に、実際に遭遇した事を書き記します。
当時のことを思い出して気分を悪くされる方もきっといることでしょう。
そんな方はこの先、読まないでください。
僕は大した被害に合わなかったので、グロテスクな表現も無いし、嫌な印象は抱かないと思いますが、皆さんの記憶に中には思い出したくない事もあるかと思いますので念のために。
少しゆるく書いてきます。







4年前の2011.3.11日。
僕は会社から午前中で帰宅し、子供たち3人を連れて近所をお散歩へ。サボっていた訳ではないですよ、何となくの虫の知らせだったのでしょう。

20~30分ぐらいで帰宅して一息ついていました。

そしたらちっちゃい地震が発生、ユラユラ。
10秒ぐらいだったでしょうか。
「お~長いね」
そんな余裕な発言をしていたことを覚えています。

そしたら南北方向にスライドするような揺れに変わり、次第に強くなってきた。揺れ始まって40秒ぐらいしていたかな。
「これはやばいんじゃないか??」
嫁さんとお顔を見合わせて、慌てて子どもをテーブルの下に引きずり入れました。パソコンデスク上部にあったプリンターが落下。避けていなければ、子どもにヒットしていたでしょう。
アパート全体がスライドしているようでした。

そしたら更に強くなり、食器棚は倒壊。アクリルを突き破って食器は木っ端微塵に・・・。幼稚園で作った手作りのお皿が・・・。
そして次第に人も立ってられないぐらいのスライドに、「これ死んだな」・・・
本気でそう思いました。
あまりにも長すぎる揺れ時間に絶望感しか沸かなかったですね。
次に思い浮かんだことは、とにかく家族を安全な場所へ避難させないと!でした。揺れが一時的に収まった地震発生から約2分後、ワゴン車に家族を乗せ、グチャグチャのアパートの中でありったけの飲み物、食料、小銭、毛布、携帯の充電器を拾い集め、急いで高台の中学校に避難しました。

車に乗りエンジンをかけた時カーナビが写り「津波が来ます、直ちに高台に避難してください」
その言葉と共に、太平洋沿いが「大津波警報」だった事に唖然としてしまいました。△△地域に第一波が到達するまであと〇〇分・・・、。△△地域に津波が到達するまであと〇〇分、。△△地域に津波が到達するまであと〇〇分・・・。

慌てふためくキャスターを見て、始めて歴史的大地震なんだと、そして津波が来てニュースを見られない大勢が命を落とすであろう事に気がつきました。近所の人に津波が来ます早く逃げてくださいと言い回りながら非難しました。

川沿いを車で走った時、川の水がひあがって底が見えていたことに本当に驚きました。

僕が当時住んでいたアパートは海から100m。
しかも海抜4m。地震直後に川の水は引いたようです。
それを見た近所のおじいちゃんは「これは津波の前兆じゃ、早く逃げなさい」そう言っていました。おじいちゃんも逃げなきゃダメだよと伝え、おばあちゃんと車に乗って避難していました。

正直、これは全てを失うなと思いました。熱帯魚も飼ってたし5年はアパートに住んでいたので寂しい気持ちで一杯でした。

中学校に避難すると、最寄の工場から従業員の人たちが避難してきて、一部の好奇心旺盛な人が一度海抜4mの国道に降りて海側の高台に移動して海を見ていました。



少し冷静になった僕たちは、これは自宅に帰れないし、長期戦になる。
さてどうしようかと、持ち物の整理をし、子どものオムツを持ってくることを忘れた僕は海と高台の人たちの言葉を気にしながらダッシュでアパートに帰宅!!

これは一生に一度の勝負かもしれない、なんてその時は思ってました!
抱きかかえられる限界までオムツを抱えた時に外から「津波が来たぞーーーー」の声!!

声も出ませんでした。

ここで死んでたまるか、絶対に津波に勝つとか意味不明な意思の元、外に飛び出すとアパートの目の前に見たことも無い真っ黒い液体が・・・

真っ黒な液体(津波)が来た!というよりは、液体(津波)の水かさがどんどん増して全てを飲み込むような感覚を覚えました。水かさが増す?地面が下がっていく?そんな感じです。

始めて津波とスプリント勝負しました!!
絶対に無呼吸で全力疾走してました、オムツを抱きかかえて・・・。

測定していたら100m走の自己ベストを更新したハズ!!


津波に勝ち、国道を全力疾走で走り、中学校に到着。
嫁にオムツを渡し、速攻でもう一度津波が見える場所へ移動。

そうすると津波がゆっくり引いていきます。
僕は子どもの着替えを確保しなければなりませんでした。
ワンセグでニュースを見ていた隣の人に第二波が何分後に来るか聞いて、ヨシ!もう一回いけると思い、回収する品物と心の準備をしていました。

なんと津波はアパートを直撃せず、一転集中、川を逆流してくれたのです。
(軽自動車のタイヤ半分ぐらいまでは到達しましたが)

川付近に居を構えていた方にはごめんなさい。
僕には不幸中の幸いだと思いました。

津波が引いたあと10分ちょいで、第二波が来る。しかも第一波より大きいらしい。これがラストチャンス。全力疾走で戻り、全力疾走で回収してきました。

モノは揃った。これで一安心!!みんな生きていて良かった!!
もし僕がカーナビのある車で午前中で帰宅していなかったら、情報源のなかった嫁と子どもたちはどうしていたのか、考えただけでゾッとします・・・。

とりあえず自分の身内とも、嫁さんの身内とも連絡が取れ、安心。

夜中に中学校から小学校に移動。
地域の拠点を小学校にするとの連絡がラジオで流れていたらしい。その連絡を嫁さんの親父さんから頂きました。感謝です。

小学校に着くと体育館は煌々と明るいではないですか。
体育館の中では毛布が配られ、ヒータが稼動し、工事現場にあるような球体のライトが光っていました。

地元の自警団の方達が法被をまとい、発電機などを持ち寄って拠点を構えていました。
存在が本当に心強かったですね。僕にも毛布使うかい?と聞いて頂いて本当に嬉しかったです。
「僕は大丈夫です、お年を召した方や、小さな子どもに使ってあげてください」と紳士に振舞いました。

明日の朝には自衛隊が水を持ってくるから、そしたら「おにぎり」を配布するからと。

す、凄い!!なんてことだ。

助け合いって本当に素晴らしい、日本人に生まれたことを誇りに思いました。

翌朝、子どもと嫁のおにぎりを頂いて、嫁の実家に移動しました。
その後、福島第一原発の水蒸気爆発もありました、僕の勤めている会社でも多くの機材や設備を納入していた第一原発。通称「1F」。

炉心温度の上昇、非常電源喪失、冷却水の蒸発・燃料棒の露出、近いうちに何が起こるか、そして数十年に渡ってどんな被害が生まれるか想像ができました。

しかしそれと同時にもう手当てが出来ない、どうする事もできない事を知っていました。結果論、非常時用の処置で炉心を急冷させれば何とかなったそうですね。
でもやはり非常用電源の喪失。これが全てでした。



震災では多くのモノ、命を失ったと思います。今なお傷跡が残る場所もあります。
でもそれと同時に、助け合い・協力する大切さ、モラルある行動がどれほど大切か再確認しました。

子どもたちが大きくなり、震災で得た教訓を忘れていたら、この震災の話しを、日本人の素晴らしさを語り、自身も忘れずに生きていこうと思います。



なんて格好良くまとめても、4年経つとけっこういろいろ忘れてしまうもんですよね。
環境もかなり変わりました、良い事もあれば嫌な事もかなりありました。
でもこれも人生。
過去はもう変えられません、変えられるのは未来だけです。
明るい未来を創りましょう!!

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